川崎和男ブログ『論理性と感性の対称性の破れ=パリティ崩壊』より引用・補足(日本語訳)する。
川崎和男:一般的には、「論理性」と「感性」の対比あるいは対称性が、
人間の能力を分化していると考えられています。
〈一般的には、「
論理性」と「感性」の
対比区別あるいは
それらの個人の中での非対称性
がによって、 人間の能力を
分化している機能ごとに分別して解釈することが出来ると
私の中では考えられています。 〉
川崎和男:つまり、論理性がある人間能力と、感性能力のある人間を対称的にとらえることは長い間、
対称性よりも対照的に議論と考察されてきました。
〈つまり、
論理性
があるという人間個人の能力と、感性
という同じ個人の別の能力
のある人間を対称的にとらえることはを、それが計測可能だとして比較した場合の結果は長い間、
対称性比例の関係にあるよりも
対照的に反比例の関係にあるという議論と考察
らしきものが私の中でされてきました。〉
川崎和男:もっと簡単に言うと、論理性があればあるほど、感性力の低下が起こります。これは同様に感性があればあるほど論理性が欠如することも同次元です。
〈もっと簡単に言うと、
論理性
すなわち論理構成力があればあるほど、感性
力の豊かさの低下が起こ
りまするような気がします。これは
同様に私のように感性があればあるほど
議論の論理性が欠如すること
もと同次元同じです。 〉
川崎和男:もっと難しい表現をすると「パリティ崩壊」を起こさせる感性軸と論理性軸が向かい合っているからこそ、
感性を論理性との対称軸に、論理性を感性の対称軸に置くことで、
感性が磨かれれば、磨かれるほど、論理性を失わせないこと。 論理性があればあるほど、感性を失わせないこと。この両面、この対称性に決して「破れ」や「崩壊」を起こさせない、この両対称性の軸からのパリティ性をより高度にしていくことが大事というこの教育こそ創造性での論理性と感性をより高度にしていく、すなわち「コンシリエンス」な統合性の問題としてきました。
〈
私にとってもっと難しい表現をすると「パリティ
崩壊対称性の破れ」
という私が最近知った言葉を
思い起こさせる
この感性
軸と
論理性
軸が向かい合っているの向かい合いから
こそ想像を巡らせるてみると、 感性
をと論理性との
間に対称軸
にというものが万が一あるならば、
この論理性
をと感性の
鏡面対称軸に
視点を置くことで、
(1) 感性が磨かれれば
、磨かれるほど
それに反して、論理性
をが失わせない失われないこと
。、(2)論理性があればあるほど
、それに相応しい感性
を失わせないことをも持っていること。、(3)この
対称軸の両
面側に目を配り、この対称性
にを決して
「破れ」や「崩壊」を起こさせない非対称にしないこと、
(4) この
両鏡面対称性の
対称軸
からのに視点を置くことで理性と感性のパリティ性均衡を
保ちつつより高度にしていくこと
の4点が
、教育においては大事と
いう私は思います。この
理性と感性をあたかも鏡面対称のように捉え両者を同等に育む教育こそ創造性
での論理性と感性をより高度にしていく
教育であり、
現代の教育においては、上述の教育方針すなわち
私の提唱する「コンシリエンス」な統合性の
教育方針が欠如しており、これが現代の大学教育における問題
としてであると私は主張し続けてきました。 〉
原文は一見日本語に見えるが日本語の文法に従っておらず、その解釈は非常に困難である。またタイトルにも現れる「パリティ」は物理学におけるパリティ保存則や数学におけるパリティとは関係のないことが明白であり、なぜ著者(川崎和男)がパリティという用語を用いたのかは不明である。内容は好意的に解釈すれば「理性も感性も磨け」ということのようであり、目新しさは無いものの主張点としてはおかしくない。
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