2016-08-08

川崎和男『論理性と感性の対称性の破れ=パリティ崩壊』 (2015-12-10)

川崎和男ブログ『論理性と感性の対称性の破れ=パリティ崩壊』より引用・補足(日本語訳)する。
川崎和男:一般的には、「論理性」と「感性」の対比あるいは対称性が、 人間の能力を分化していると考えられています。 
〈一般的には、「理性」と「感性」の対比区別あるいはそれらの個人の中での非対称性によって、 人間の能力を分化している機能ごとに分別して解釈することが出来る私の中では考えられています。 〉
川崎和男つまり、論理性がある人間能力と、感性能力のある人間を対称的にとらえることは長い間、 対称性よりも対照的に議論と考察されてきました。
〈つまり、理性があるという人間個人の能力と、感性という同じ個人の別の能力のある人間を対称的にとらえることはを、それが計測可能だとして比較した場合の結果は長い間、 対称性比例の関係にあるよりも対照的に反比例の関係にあるという議論と考察らしきものが私の中でされてきました。〉
川崎和男もっと簡単に言うと、論理性があればあるほど、感性力の低下が起こります。これは同様に感性があればあるほど論理性が欠如することも同次元です。 
〈もっと簡単に言うと、理性すなわち論理構成力があればあるほど、感性の豊かさの低下が起こりまするような気がします。これは同様に私のように感性があればあるほど議論の論理性が欠如すること同次元同じです。 〉
川崎和男もっと難しい表現をすると「パリティ崩壊」を起こさせる感性軸と論理性軸が向かい合っているからこそ、 感性を論理性との対称軸に、論理性を感性の対称軸に置くことで、 感性が磨かれれば、磨かれるほど、論理性を失わせないこと。 論理性があればあるほど、感性を失わせないこと。この両面、この対称性に決して「破れ」や「崩壊」を起こさせない、この両対称性の軸からのパリティ性をより高度にしていくことが大事というこの教育こそ創造性での論理性と感性をより高度にしていく、すなわち「コンシリエンス」な統合性の問題としてきました。 
私にとってもっと難しい表現をすると「パリティ崩壊対称性の破れという私が最近知った言葉思い起こさせるこの感性理性軸が向かい合っているの向かい合いからこそ想像を巡らせるてみると、 感性理性との間に対称軸というものが万が一あるならばこの理性感性の鏡面対称軸に視点を置くことで、(1) 感性が磨かれれば磨かれるほどそれに反して、論理性失わせない失われないこと、(2)理性があればあるほどそれに相応しい感性を失わせないことをも持っていること、(3)この対称軸の側に目を配り、この対称性決して「破れ」や「崩壊」を起こさせない非対称にしないこと(4) この鏡面対称性の対称からのに視点を置くことで理性と感性のパリティ性均衡保ちつつより高度にしていくことの4点、教育においては大事という私は思います。この理性と感性をあたかも鏡面対称のように捉え両者を同等に育む教育こそ創造性での論理性と感性をより高度にしていく教育であり現代の教育においては、上述の教育方針すなわち私の提唱する「コンシリエンス」な統合性の教育方針が欠如しており、これが現代の大学教育における問題としてであると私は主張し続けてきました。 〉

原文は一見日本語に見えるが日本語の文法に従っておらず、その解釈は非常に困難である。またタイトルにも現れる「パリティ」は物理学におけるパリティ保存則や数学におけるパリティとは関係のないことが明白であり、なぜ著者(川崎和男)がパリティという用語を用いたのかは不明である。内容は好意的に解釈すれば「理性も感性も磨け」ということのようであり、目新しさは無いものの主張点としてはおかしくない。

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